バレットクラブの歴史(プリンス・デヴィト時代)「History of BULLET CLUB 」



在、新日本プロレスの公式youtubeチャンネルにて「History of BULLET CLUB 」 バレットクラブの歴史が分かる無料動画が4本UPされています。

1本で20分でバレットクラブ(以下BC)の歴史を2年分の紹介しています。

初期メンバーとBCの歴史を振り返る

初代リーダー「プリンス・デヴィット」BCの結束前

2006年にNJPWに正式入団。ヤングライオンとして活動。

2009年に田口隆祐選手とタッグ、”Apollo 55″を結成し、24代Jr.タッグ王座になっています。

2011年10月には、ゴールデン☆ラヴァーズ(飯伏、ケニー・オメガ組)に破れ、Jr.タッグ王座を失うも、この年の東京スポーツ主催のプロレス大賞においてこのJr.タッグの試合が初となるベストバウト賞を受賞。

結局”Apollo 55″はJr.タッグ王座を4度、戴冠。また、シングルでの実績も高く、IWGP Jr.ヘビー王座を通算3度戴冠。

Lion
当時のデイヴィット選手は本隊所属のイケメン外国人レスラーで非常に人気が高かったです!

BC結束の流れ

2013年3月3日、新日本創立41周年記念興行のメインイベントでIWGPヘビー級王座を保持する棚橋弘至とノンタイトルマッチながら対戦、場外でのイス攻撃などそれまでのファイトスタイルとは一変した戦法で挑むも敗戦。試合後でもデヴィットは棚橋に対して突き飛ばす行為に及ぼし、終始エキサイトした。以後、それまでの好青年キャラクターとは正反対となる攻撃的な言動・行動が目立つようになり始める(リング上だけでなく、自身のTwitterで他の新日本所属選手のTwitterに向けて挑発的なリプライを送信するという行動も行っていた)。さらに4月5日、アレックス・シェリーとIWGPジュニアヘビー級王座を賭けた試合で勝利を収めた後、大の字に横たわるシェリーを足蹴にするなどデヴィットの暴走は次第に加速していった。

4月7日、INVASION ATTACKにてIWGPジュニアタッグ王座に田口とのタッグで挑戦するも、田口がピンフォールを奪われ、敗北を喫する。試合後も試合中での誤爆などをきっかけに小競り合いにまで発展したが、一旦は田口とデヴィットの二人は握手を交わした。しかし、直後にデヴィットが田口の後頭部に裏切りのラリアットを見舞い、さらにここで乱入してきたバットラック・ファレと共にリング上にいる選手等を排除すると、ファレを自身の「バウンサー(用心棒)」と紹介し、Apollo 55を解散することを宣言した。

5月3日、ファレの凱旋帰国試合のタッグパートナーとして田口、キャプテン・ニュージャパン組と対戦した。この試合に勝利を収めた後、バックステージのコメントで新ユニット「BULLET CLUB」を結成し、ヒールターンを果たす。同日に棚橋とのシングルマッチで敗北したカール・アンダーソンとセコンドに付いていたタマ・トンガと共闘し、リング上で棚橋を袋叩きにした。

6月、BEST OF THE SUPER Jr.では全試合においてBULLET CLUBにセコンドを付かせ、ダーティファイトを展開する。全勝でいち早く決勝トーナメントまで進出すると、準決勝でケニー・オメガ、決勝戦でシェリーを下し、史上2人目となる全勝優勝を遂げた[8]。22日、「DOMINION6.22」では棚橋とシングルマッチで対戦し勝利。全試合終了後の勝利者インタビューで、IWGPヘビー級王座を保持するオカダ・カズチカの持つ同王座に挑戦を表明した。それに対してオカダは外道とのIWGPジュニアヘビー級王座防衛戦に勝つことを条件に受諾した。

7月5日、後楽園大会で外道を破りIWGPジュニアヘビー級王座の防衛に成功する。7月20日、オカダのIWGP王座に挑戦したが敗北した。8月、G1 CLIMAXに出場し、全公式戦においてバッドラック・ファレをセコンドに就かせ、5勝4敗の成績を残した。

その後もデヴィットはジュニアヘビー級でありながらヘビー級の選手と対戦することが多くなり、SUPER Jr. TAG TOURNAMENTには参加せず、バッドラック・ファレと組んでWORLD TAG LEAGUEに参加した。

2014年1月4日、約半年ぶりにIWGPジュニアヘビー級王座防衛戦に臨むものの飯伏の前に敗れた。なお、顔から体にはホラーを意識したようなペイント姿で会場に現れた。

4月6日、かつてのタッグパートナーだった田口とシングルで対戦、試合中セコンドのヤング・バックスの介入を止めさせて戦ったあげく仲間割れし、試合後には田口と握手をした。4月7日、新日本に退団を申し入れた。(引用元;wikipedia

結局、デヴィッド選手はJrヘビーでは圧倒的に強かったものの、BCのリーダーの中で唯一IWGPヘビー級のベルトは戴冠できず。BC結成後、約1年で退団。


初期メンバー3人(ファレ・タマ・アンダーソン)

バッドラック・ファレのBC結束前

2009年5月、新日本プロレスの入団テストを受けて合格。6月より練習生としてトレーニングを積み、一般公募していたリングネームの中からキング・ファレKing Fale)と名づけられ、2010年4月4日、中西学戦でデビュー。9月に永田裕志率いる青義軍に加入。対抗勢力にあたるヒールユニットCHAOSと抗争を繰り広げる。2011年には永田とのタッグでG1 TAG LEAGUEに初出場を果たした。2012年2月10日、若手主体興行NEVERにて永田とのシングルマッチで敗れた後、武者修行のためアメリカに遠征。

帰国しBC結束

2013年4月7日、INVASION ATTACKの第1試合終了後、ファレはプリンス・デヴィットに加担する形で田口隆祐を襲撃した。デヴィットは田口とのタッグチームであるApollo 55の解散を宣言、ファレを自身の「バウンサー(英語で「用心棒」の意)」“ジ・アンダーボス” バッドラック・ファレ“The Underboss” Bad Luck Fale)と紹介しマイクパフォーマンスを行った。

5月3日、レスリングどんたく 2013にてファレはデヴィットをパートナーにして田口&キャプテン・ニュージャパン組を相手に凱旋帰国試合を行い、快勝を収めた。その後、ファレはカール・アンダーソン、タマ・トンガと共にデヴィットの下に集い、新ヒールユニット、BULLET CLUB(以下BC)を結成した。以降、入場時にBCリーダーのデヴィットを肩車で担ぎ上げながら入場、試合には随所で乱入し対戦相手に暴行を行うなどデヴィットの宣言通り用心棒的な役割として活動する。(引用元;wikipedia

デヴィット選手がジュニア選手であった事もあり、超ヘビー級のファレ選手の役割は非常に大きかった。常にデヴィット選手に同行し、場外で対戦相手を痛めつけるファレ選手。元は永田選手がリーダーの青義軍から1年の海外遠征を経てBC加入だったのでインパクトが大きかった。

Lion
BCと関係ないけど、永田選手の最後のG1の対戦者を務めたファレ選手。試合後の行動にグッときたなぁ~

タマ・トンガのBC結束前

2010年5月8日、新日本プロレス主催のSUPER J TAG TOURNAMENTに出場予定だったタイガーマスクのリザーバーとして参戦し、父であるハクが使用していたリングネームに肖り、タマ・トンガTama Tonga)なるリングネームに変更。デイビー・リチャーズとタッグを結成し、一回戦で金本浩二 & エル・サムライと対戦。敗れはしたものの試合は高評価を得て、同年に開催されたBEST OF THE SUPERJr.に初出場を果たした。

以降、定期的に新日本に参戦し、2010年後半からは後藤洋央紀とタッグチーム、荒トンガを結成。その後はG1 TAG LEAGUEなどヘビー級戦線での活動が多くなり、2011年からは本格的にヘビー級転向を宣言。5月3日、レスリングどんたく 2011にて、メキシコ遠征から帰国した後藤のパートナーとして、プロレスリング・ノアの杉浦貴 & 橋誠と対戦。試合中にノータッチ・プランチャ・スイシーダを放った際、右肩から場外の床に落下してしまい、後日右肩脱臼と診断され、長期欠場。また、この負傷が原因で出場予定とされていた初代IWGPインターコンチネンタル王者決定トーナメントも欠場となった。(引用元;wikipedia

その後、2012年5月3日、プリンス・デヴィット、カール・アンダーソン、バッドラック・ファレらと共にBULLET CLUB(以下BC)を結成し、ヒールターンを果たしました。本隊で活躍していた頃のタマ選手は明るくノリが良い選手でした。今のデヴィッド・フィンレー選手やジュース・ロビンソン選手に似た印象。今となると信じがたいですが、BCに入った後も暫く他の先輩レスラーの陰に隠れて大きな活躍が出来ずにいました。

Lion
BCに入った後も「タマちゃん」の人間性が垣間見える部分が嫌いに成れないんだよなぁ~!

カール・アンダーソンのBC結束前

アメリカのローカル団体を転戦していく内に、周囲の評価が高まりつつあったものの、自身はレスラーとしての限界を考えており、大学に通いなおす道も検討した。 そんなアンダーソンの所に、日本に渡り実績を積み重ねていたデヴィットより「試合しているVTRを送ってほしい」との連絡が入る。言われるがままに日本にVTRを送付、すると新日本プロレスより「3カ月契約で日本に来てほしい」とスカウトが入り(日本側ではプリンス・デヴィットの他後述の通り永田裕志からの推薦もあったとのこと)来日のチャンスを得る。(引用元;wikipedia

その後、新日本プロレスに本格参戦を果たし、GBH、ケイオスを経て、本隊へ。2012年には棚橋弘至選手に勝ち、G1の決勝戦へ出場!決勝ではオカダ選手に負けて優勝を逃したものの、シングルプレイヤーとしても評価を得ます。

BC結束後はギャローズ選手と組み、タッグ屋としての道を歩み、2016年2月20日、ドク・ギャローズとともに正式に新日本プロレスを退団。

Lion
アンダーソン選手はNJPWに長く滞在した事もあり、本当に日本人ファンに愛されていましたね。退団前の試合で四方に頭を下げる姿にグッときました。



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